夏草や兵どもが夢の跡

夢の跡を鳥辺野で供養しています。

田畑茂二郎(の回想)精読2

田畑茂二郎『国際社会の新しい流れの中で――一国際法学徒の軌跡』(東信堂、1988年)を取り上げます。今回は助手時代からです。興味深いです。

 

・長濱政壽のこと。当時のマルクス主義の流行から物事を階級的立場から見るという傾向が多かった中、「長濱君は階級を超えた国民社会の存在をそう軽々しく否定できないという信念のようなものをもっていた」(p. 19)。これは長濱や行政学史を考えるうえでは重要な示唆ですね。私は考えないのですけれども。

 

・最初の助手論文

「国際裁判における政治的紛争の除外について」のことが話されていて、30年代のモーゲンソー、Politics among Nationsより以前に着目しているのはすでに酒井哲哉先生が言及している通りですね。ちなみに、同じテーマで祖川武夫先生も助手論文を書こうとしていたそうですね。そして田畑が書いたからもう書かんということだったみたいです。

 

・田岡良一との邂逅

田岡が京大に非常勤で来たときに田畑は、「国際法というものがわれわれにとっていったいどういった意味をもつのかわからなくなりました」といったそうです。(p. 22)

 

・『法学論叢』の習慣?

助手は二年以内に助手論文を書くのはそうですが、それまでに『法学論叢』に書評を何本か執筆する義務があったみたいですね。そして、助手論文を書いた後は年に二回論文を書けと言われたようで、田畑は一つのテーマを連載で埋めていったみたいです。

今の『法学論叢』もそういった形の連載形式が非常に多いですが、こういった伝統の名残なのでしょうか。興味深いです。(p. 25)

 

・共感

「いまだったら結論にもっていく上で直接関係のないものは抜かしていくわけですけれども、若いときは読んだかぎり抜かすのは気がすまないのでそれにふれることになる。それで長くなるわけで、読むほうはたいへんしんどかったろうと思います。」(p. 26)

 

なんか共感してしまいました。

ごちそうさまでした。

田畑茂二郎(の回想)精読

田畑茂二郎『国際社会の新しい流れの中で――一国際法学徒の軌跡』(東信堂、1988年)では彼の学問人生が座談会形式で振り返られますが、学生時代を主に読んでいきたいと思います。よきでした。では気になったところをぽつぽつと書いていきます。

 

 

まず、田畑の三高時代の思い出について。彼は三高のときから講議で触れられたからといってマッキーヴァー(コミュニティとアソシエーションで有名な社会学者のあの人)を読んでいたのですね。彼の受容史には明るくないですが、高田保馬あたりが紹介したのではなかったかしら。また、その時の試験で「国際法は法であるか」、「ユス・イン・レムとユス・イン・ペルソーナの区別を論ぜよ」(対物/対人)と出たらしく、彼は一番良い答案を書いたそうです。(p. 12)

 

また、彼が京大生時代に国際法を教えたのは末広重雄と恒藤恭だったようです。(p. 14)恒藤は幅広い人なのでともかく、末広が国際法とはなんというか。。。

 

さしあたりこの辺で。まだ続くと思います。

ごちそうさまでした。

『原理日本』と聖徳太子

中島岳志「『原理日本』と聖徳太子――井上右近・黒上正一郎・蓑田胸喜を中心に――」(石井公成監修『近代の仏教思想と日本主義』法藏館、2020年)読了。

 

『原理日本』の同人たちが、「親鸞聖徳太子明治天皇」というラインをいかに構築していったかという考察。内在的考察とは言いません。

史料紹介のような感じで今後読むべき史料が少し見えてきたと思います。例えば聖徳太子のどこに注目したかは原理日本社系と仏教学者も違っていますし、十七条憲法のどこに力点を置くかも違ってきますよね。そこまで比較してほしかったですね。

 

ごちそうさまとは言いたくないです。

京大人文研と「共同研究」

高木博志「「日本部」の共同研究の思い出」(『人文』第69号、2022年)読了。よきでした。

 

軽いエッセイです。文章は1980年代半ばに、京大人文科学研究所の共同研究、飛鳥井雅道班の報告を聞いた筆者の思い出から始まります。

東大・京大では戦前は前近代しか卒論テーマが許されなかったなか、「井上清が一九五三年に人文研に赴任してはじめて、京都で日本近現代史研究が学問になったと岩井忠熊は回顧している」。やはり井上清は偉大ですね。今日の歴史研究では忘れられつつありますし、私も全然知らないのですが、彼の『日本の歴史』(岩波新書)は中国で未だに人気だそうです。それはそれでどうかと思いますが……それはともあれ、井上―松尾ラインはすごいですね。

 

話は飛鳥井の思い出に移っていくわけですが、彼は活字になっていない卒論や修論を読んで人材発掘も行っていたそうです。それで、「研究会中に椅子に公家座り、片膝を立ててあぐらをかく飛鳥井の姿が目に浮かぶ」と筆者は回顧するわけですが、公家座りなるものを私は寡聞にして知りませんでした。

 

「職業としての共同研究」を自覚する筆者は最後にこう結んでいる。

  

 

  「日本部」の学の系譜を、私は、史料に基づいて構築する世界のおもしろさ、そし  

  て現代の政治や社会と向き合う中での学問的営為にあると思っている。

 

 

今日こういった「共同研究」は人文研も含めてどれくらい生き残っているのでしょうかね。。

 

ごちそうさまでした。

橋桁を叩き壊しながら「架橋」に希望を馳せる

森川輝一「不確かな橋の上で――タクシー運転手と政治思想史研究者の間――」(『創文』516号、2009年)読了。よきでした。

 

 

  世に流れる数多の言葉――耳障りのよい物語から専門家にしか(にさえもよく)分  

  からない理論まで――に安易な橋を架ける必要はないのではないか」〔中略〕思想

  つまりは「考える」という営みに効用があるとすれば、それは頼りない橋桁を揺さ

  ぶり、薄っぺらな橋梁を叩き落すことにあるのではないか。〔p. 35〕

  

 

この言葉が印象的でした。リサーチクエスチョンで「架橋」という言葉をよく目にしますが、非常に逆説的で考えさせられる論考でした。

毎日、世界では悲惨なことが起こる一方で、「辞書を引き引きわけの分からない本を読みジャーゴンを振り回して読み手のいない論文を書くこと、それが私の仕事だ」と諧謔的に筆者は述べるものの、個々の研究者が己が仕事に徹し、時の流れに伴い流され消えてゆく中で本当に意味のある研究は生き残るのではないか。すなわち、「橋はいつか(いつでも)、どこかに(どこにでも)架かる」と言います。筆者の確かな希望が読み取れる良いエッセイでした。皆様も読んでみてください。

 

読者もいないこのブログは時の流れに押し流されるまでもないですが、これだけは言いたい。

「ごちそうさまでした」。

戦争と仏教者、翼賛の内面をトレースする

東真行「聖徳太子と日本主義――金子大榮を中心に――」(石井公成監修『近代の仏教思想と日本主義』法藏館、2020年)読了。勉強になりました。

 

十五年戦争」期から盛り上がる、「日本精神」と聖徳太子のブームですが、金子大榮という仏教学者が、単に国策に迎合した側面からのみとらえるのではなく「日本」と仏教を聖徳太子を媒介としてどのように和解させようとしたかその内在的考察を行っています。

 

具体的内容は仏教のド素人たる私には語る資格がないのですっ飛ばします。

結局「天皇制国家への心情と仏教における「自覚」との和解を求める中で聖徳太子の存在は重要」であったようです(pp. 136-137)。

 

ただしこれで終わるのではなく、このような内在的考察の意義として、我々の現前に今日も無数に存在する「現状追認」を自らの課題とし得るかどうかに言及しているのは興味深いですね。ただし、特に31年や37年(『国体の本義』)以降、数多の知識人が「現状追認」していきますが、それを内在的にトレースする意味って何なのでしょうね。「転向論」にせよ、それらを読んでも私はよくわかっておりません。葛藤の跡が見えない人は取り上げる意味がないのでしょうか。

 

ただ、本稿では以下のように結ばれています。

「金子が抱えた「自覚」と社会、国家がいかに関係すべきかという問いは現代の仏教者にとって、なおも課題となるに違いない」(p. 137)。

ごちそうさまでした。

 

京都大学総合生存学館(思修館)に「自治」はあるのか??

京都大学新聞』(怪しくない方です)に「​総合生存学館 運営に全研究科が参画へ 学館長を総長が「指名」」​(2022年7月16日)という記事がありました。詳しくは2022年6月28日の京都大学達示55号によります。

記事によると、変更点は主に以下の通りです。

1,「これまで学館の教授会の議にもとづき総長が任命していた学館長を、全学的な審議機関である教育研究評議会の議を踏まえ、総長が「指名」するようになる」。

2,「学館長には京大の専任の教授に加え、副学長も就任可能になる」。

3,「学館長が指名する副学館長は、これまで学館の教授から選ばれていたが、変更後は他部局の教授も指名できるようになる」。

4,「予算や人事といった重要事項を審議する機関として、「協議会」が新設される。協議会は学館長・副学館長に加え、他研究科の研究科長なども加わって運営される。全研究科が学館の運営に参画することになる」。

より分かりやすくは、​京都大学の令和4年度達示第55号の新旧対照表​をご覧ください。 (法律論議は本当に苦手なのですが少し考えてみようと思ったので、記事を書いています。)

おそらく1が一番大きなポイントではないでしょうか。総合生存学館を含む「研究科」のトップは「当該研究科の教授会の議を踏まえて、総長が任命する」(国立大学法人京都大学の組織に関する規程第16条2項。以下「京大の組織に関する規程」とする)ものです。教授会の議を踏まえるのは各学部も同様です(京大の組織に関する規程第26条)。

しかし2023年4月1日からは、教授会の議を踏まえてトップが選任される「研究科」から総合生存学館が適用除外されるようです。すなわち、総合生存学館の学館長は、「京都大学の副学長又は専任の教授のうちから総長が教育研究評議会の議を踏まえて指名する」(京都大学大学院総合生存学館の組織に関する規程第2条第2項(2023年4月1日より施行))そうです。私には「任命」と「指名」の違いはよくわかりませんが、記事も指摘するように、総合生存学館内で選任されていた学館長が教育研究評議会の議を踏まえて総長が「指名」するようになったことです。

その教育研究評議会の構成は以下の通りです。(国立大学法人京都大学教育研究評議会規程)

第2条 教育研究評議会は、次の各号に掲げる評議員で組織する。

(1) 総長

(2) 総長が指名する理事

(3) 総長が指名する副学長(命を受けて校務をつかさどる副学長に限る。)

(4) 研究科長、総合生存学館長、地球環境学堂長、公共政策連携研究部長及び経営管理研究部長

(5) 研究科(次号に定めるものを除く。)の教授 各2名

(6) エネルギー科学研究科、アジア・アフリカ地域研究研究科、情報学研究科、生命科学研究科、総合生存学館及び地球環境学堂の教授 各1名

(7) 附置研究所の長

(8) フィールド科学教育研究センター、生態学研究センター、学術情報メディアセンター及びヒト行動進化研究センターの長

(9) 国際高等教育院長

(10) 附属図書館長

この中に総合生存学館の枠はわずか1名です。是非はともあれ、学館側にとっては大きな権限の縮小です。

因みに理事自体は「総長は、理事を任命するに当たっては、学外者が2名以上(学外者が総長に任命されている場合にあっては1名以上)含まれるようにしなければならない」とのことです(京大の組織に関する規程第3条5項)。

うがった見方をすれば、教育研究評議会に学外者の理事を入れることも可能でしょう(もちろん外部の意見も大切ですが)。

理事そのものは「総長が第7条に定める経営協議会及び第8条に定める教育研究評議会の意見を聴いて、任命する」(京大の組織に関する規程第3条4項)とありますが、(2023年4月1日からは総合生存学館を除きますが)学部長や研究科長の専任には教授会の議を「踏まえ」る一方、理事は意見を「聴いて」選任される、この表現の違いは何を意味するのでしょうか……

さて、2については、副学長の定義が問題かなと思いました。副学長は「法人の理事又は職員をもって充てる」(京大の組織に関する規程第13条2項)とともに「副学長は、総長が任命する」(京都大学副学長に関する規程)ようです。とはいえ、「副学長は、経営協議会及び教育研究評議会に出席することができる。ただし、表決に加わることはできない」(京都大学副学長に関する申し合わせ)ですが。要はこれもうがった見方をすれば総合生存学館長に、総長お好みの(理事兼)副学長を充てることができるかもしれません。

何はともあれ、学部自治、教授会自治(≠学問の自由)が守られてきた京都大学にあっては一つの契機をなすかもしれません。なんだか徐々に総長に権限が集まっているような気がしなくもないです。因みに、教授会自治と学問の自由の関係については、拙ブログの「

sciolist1929.hatenablog.com

大経済学部助教授(当時)堀江英一による瀧川幸辰への公開批判」も併せてご参照ください。

とはいえ、記事によると京大側も、総合生存学館の特徴たる「分野横断的な研究力」を伸暢させるために、主体的かつ全学的な協力体制が必要だと回答したようで、総合生存学館の位置づけがその他の学部や研究科と比べてやや特殊であることに起因するのかもしれません。

これ以上はやめておきます。京都大学新聞社さま、良記事をごちそうさまでした。